子供が小学生になったので、いったんこのブームというか葛藤は終わりましたが。


私は田舎の戸建てで育った生い立ちなので、戸建てが当たり前というイメージが自然にありました。車が止められる場所と価値菜園と、ちょっと倉庫があるあの”普通”の家です。

周りの友達も程度の差はなく、同じようなもので、賑わいのある場所では少しコンパクトで、田舎の農家なんてのはデーンとでっかい母屋と離れなのか、農機具置き場なのかが幾つか合ったりして。


首都圏に出てきて会社員を始めると、その価値観が一旦は大きく反対側に振られました、集合住宅の登場です。学生時代にアパートやマンションの賃貸には住んだことがありますが、家族居住用のそれはどこか自分とは違う世界だと思ってました。

あの画一化されたデザインには、無機的で工夫やワクワク感から遠く離れたさま、生産性や効率というか、味気の無い、悪く言えば原価低減の末、愛嬌のかけらもないぶすくれた様な心地がします。

玄関を開けると1本の動線がまっすぐ背骨のようにマンションを貫いていて、その左右に3部屋とLDKが長方形の外周の中にすっぽり収まる、あのデザイン、いやもはやデザインとは呼びたくない、せめて”工業”デザインでしょうか。

子供心に思うだろうことは、友達が集まっても決して面白くないであろうかくれんぼ。隠れるところは無駄を極限に省いた最果ての収納場所のみで、武骨なあのコンクリートの梁では隠れることもままなりません。

私だけか、夫婦であればそれはそれでも良いのかもしれませんが、子供と一緒にこういうところで生活するのかなと何となくおもってました、が。


 急に宝くじに当たるわけでもなく、ドラマのような展開もなく、家族それぞれがスポッと”機能的”におさまるこの間取りが我が家の巣となっています。

家族は何処?って時もその探索にかかる動線たるや最短のもので10歩もいらず、やはり狭いと感じますね。
そうは言うものの、普段の生活に困るのかと言えば困ることはないもんなんです。

収納が少なくて、ものにあふれると思ってたのは遠い過去で、その原因は子供だったのかもしれません。おもちゃがかさむんです、どんどん増えて、成長とともにおもちゃ自体も大きなものが増えてくるんですよね。

最終的には家の中に滑り台とブランコができるんですが、ここら辺がある程度ピークだったと思います。そこからは徐々に物がコンパクトになりはじめ、あの”大きな”おもちゃたちは無残にも飽きられて見向きもされない冷遇を受け始める様になります。

ここで処分にかかる数百円のお金に糸目をつけなければ、少しづつものが少なくなって、我が家のフリースペースである畳の客間で昼寝が出来るようになり始めます。

そこからは、なんとでもなるというか、狭いと思うこと自体も少なくなり、むしろ家族の距離が近い状況が幸せに感じるようになるんですね。自分の部屋が2つも3つもほしいわけでなく、自分の部屋があったとしても何に使うでも無し。


 一方で、実家の戸建ては、広々というか閑散と言うか、スペースを弄んでいますね。

収穫した豆やなんやの種が縁側に干されていたり、たたみ2畳はあるかというスペースが室内園芸用に使われていたり、大の大人をすっぽり包むあのマッサージチェアが8畳たたみ部屋に鎮座していたりするんですが、どこか寂しげで寒い感じがしますね。

歳相応にいろんなものを欲しがるのが人間の性だとは思いますが、今は家族団らんのこの賃貸マンションが都ですよ、最高に居心地の良い。

収納どうのこうのと思ってましたが、ある程度まで来るとものは物でも、食べ物に興味が寄っているので、使わないものはぱっぱと整理する癖というか、習慣が付いた以降はどうこう言うことはないですね。

思えば実家も故郷もずっとずっと永遠にあるものではないことに気付かされる年齢になると、住居もその時々の要求を一定以上満たしたものであれば良しとし、遠くない将来にはどこかへまた流れついて居座り、腰をおろし、気付けば今と同じ様なコンクリートに囲まれた施設か病院にお世話になるんですから、あまり欲をかかず今をかみしめましょうか。


 ということで、特別な事情がない限り、マンションであろうが賃貸であろうが、ここが穏やかで落ち着くところ、幸せな場所と思えば良いのです。


 心の平安が大切だということでしょうか。